好みと尖り
高校生の頃、1年だけ飲食店でアルバイトをしたことがある。
かつて家からほど近い場所にあった、蕎麦と天ぷらが美味しいお店。
当時の自分は、それはもう今とは比べものにならないほど要領が悪く、加えてコミュ障持ちという、どう見ても戦力にはなり得ないものだったが、時に厳しくも優しい先輩方や同僚に救われ、本格的に就職活動をする為に辞めるまでなんとか続けて来られた。
とはいえ仕事も喋ることも得意ではない自分にとっては、月1の給料日と、毎回食べさせて貰える賄い料理が楽しみということになる。
そこで食べた刺身+わさび醤油の組み合わせに目覚め、それ以来生魚を食べる時には自分の中でわさび醤油がマストになったのだが、昔は別にわさびが好きなわけではなかったので、単純に美味いものに触れたことと、子ども時代から考えると味覚が多少は変わったのだろうなと思う。
好みが変わるというのはよくある話で、それまで苦手だったものがあるタイミングで好きになったり、逆に子どもの頃に好きでしょうがなかったものがいつの間にか苦手になっていたりするものだ。
同じく高校時代から20代の序盤ぐらいまで、とある有名SNSポータルサイトにアカウントを持っていた。
ゲーム目当てで始めたものだったが、やっていくにつれて様々な繋がりができ、親しく絡む人が増えていった。
ちなみに以前の記事に書いた、何か文章を書くことへの成功体験の一つもこの時期で、サイト内の機能にブログのようなものがあって、それをいろんな人が見てくれた事が嬉しくなった、というものだった。
さらに違う機能として、同じ趣味を持った人同士でグループを組んで、そこの中だけでやり取りをするみたいなものもあった。
少しずつ音楽を聴くのが好きになり始めていた当時の僕は、好きなアーティストや曲の話をするためのグループに入れてもらう事になった。
尖っている、と言えば聞こえはいいだろうか。
斜に構えることをカッコいいと思ってしまう時期はきっと誰にでも大なり小なりあるもので、
「なんでこの曲の方が売り上げが多いのか納得がいかない」
「こういうアーティストの方が売れていいのに」
などとそのグループの中でみんなでのたまい始めた。
今考えると、正直めちゃくちゃ痛い。こいつは音楽の事なんて何も分かっていないのに。
もちろんこの時期にどハマりして今でも好きなバンドやアーティストはいるし、今でも知らないものを掘り下げたい気持ちはある。
でもこのグループの中で聴いていると挙げていたマイナーアーティストは半分ぐらいカッコつけて無理して聴いていた。なんなら全然知らない人もいたぐらいだ。
承認欲求が高まりすぎたのだと思う。きっとこのグループの中の人たちに距離を置かれたくなくて、認めてもらいたくて、半分ぐらいはずっと嘘をついてきたのだ。
本当は普通にJ-POPも好きだし、アイドルもそこまで嫌いじゃなかったはずなのに。
百歩譲ってそれらを避けるならまだしも、ちょっとバカにし始めたこの時期の人格は本当に痛い。今このスタンスでやっている人がいたら悪いことは言わないからやめた方がいい。本当に痛いから。
Twitterに移ってから10年ちょっと、好みが若干、いやだいぶ変わった今の僕の嗜好を見たら、当時の僕は何と思うだろうか。
今の方が断然無理をしていない。面白いと思ったもの、好きだなと思ったものを普通にそのまま言う。そして口に合わないものがあっても無闇にはこき下ろさない。否定はしてもいいんだろうけれど、必要以上にはしない。僕は神様でもなければ作り手でも何でもないただの受取師なのだから、ごちゃごちゃ言う権限などないのだ。
大人になるってこういうことなのかと言われると、別にそんなこともない気はするけど。斜に構えることがきっとそんなに好みの味ではなくなったんだなと思ってみることにする。